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先日、映画『つぐない』を観てきました。映像と音楽がとても美しい映画でした。またテーマが深遠なのですが、私にとって身近な問題でもありました。
ストーリーは、劇作家を夢見る少女ブライオニーが、ある偽りの証言をすることから、自分の姉とその恋人の人生を不幸のどん底に陥れることになります。
成人したブライオニーは看護士になり、人間の苦しみを救うという道を選択します。人間の「痛みと苦しみと共に生きる」苦しみを自らに課して、かつて犯した罪をつぐなおうとします。
結局、彼女は作家としての人生を選択し、そのつぐないのために一生涯をかけて、苦しみながら「つぐないの行い」として、この作品を書き上げます。作品を生み出す行為そのものが、つぐないを果たし、彼女を自らの救いに導くものでした。
自分は罪を犯した、自分は人を傷つけてしまったという思い込み、その後悔の念を抱いて、自分を責めながら、つぐなうための生き方を模索する・・。
このことは、日常の人生において、私たちの誰もが心の中で引き起こしている光景のように、私には思えます。
ただ多くの人々は、それが意識化されずに、人生をやり過ごしていることが多いのではないかと思いますが・・。
しかし、潜在意識は確実に働き、その人の人生に、生き方に、人間関係のあり方に影響を及ぼしていることは明らかです。
人はしばしば(というよりも誰もが)、人を傷つけたあるいは傷をつけられたと思い、意識的あるいは無意識的に自分や相手を責め苦しみます。
この映画の根底にあるものは、「罪の意識」と「つぐないの行い」と「許し」というキーワードだと思います。
私が、人生において医師という道を選択したのはなぜか・・。自分で感じるのですが、おそらく過去世か幼児期か分かりませんが、自分に罪の意識を感じたからではないかと思います。自分を許せなかったから、自分を許すために、人の痛みや苦しみと共に生きる道を選んだような気がします。
そして、診療において、自分を責めて苦しむ人々に、自分をそのように責める必要のないことを伝えているのです。矛盾しているようですが。
来る日も来る日も、人間の精神的、肉体的な苦しみと対峙する心療内科医という職業。実は、内心この仕事を辞めたくなることがあり、逃げ出したくなることもあります。しかし、このようにしてやってこられたのは、その道の中に、苦しむことの中に、一条の光があったからだと思うのです。
「つぐないの行い」の先には、許されたという体験が待っている・・と人は期待します。
しかし、「自分が」自分を許さない限り、本来それはやってきません。そのためには、自分が自身を許す物語を作ることと、それを実現することをしなければなりません。
この映画の主人公ブライオニーは、看護士というつぐないの行いだけでは、実現しないことを知り、内面的な人生の意味を生み出そうとしました。創作という活動です。
人生において、過去の事実を変えることはできません。人間にできることは、過去の事実をどのように受け止め、「今」という与えられた貴重な時間を、自分の人生をどのような意味として生み出し、それを体験的に実感として生きるかいうことでしょう。
人間は、自分を許せない、あるいは許されていないと思うから、自分を許そう、あるいは許されたいという道を求める。瞬間だけ、許し許されたというすばらしい体験がやってくるかも知れませんが、すぐにまた自分や人を許せず、許そうという道を歩んでいる。そんなゲームの繰り返しが、人生なのかも知れません。
おそらく、許されたという体験ほど素晴らしい体験はないから、この世ではなかなか続かないし、常識を遥かに超えたことだから、周囲に影響されてすぐにフツウに戻ってしまうのでしょう。
しかし、真摯にその道を歩み、一切を廃して人生に望むことは、崇高な価値のある生き方であると思います。生涯をかけて、そのテーマに取り組み、彼女が出した結論を語る後半のスクリーンの重みはさすがでした。
人間として生まれ、何のためにこの世に来たのか、何をどのように体験したくて「ここ」にやってきたのか。
本来、「罪」という「存在」や「実体」などというものはありません。それは、人間が生み出した「幻想」でしかありません。でもなぜ、そのようなものを人間は生み出すのか・・。
私は、人間は罪の意識を感じ、「つぐない」を心に決め、それを通して何かを体験する必要性を感じているからなのだと思います。その中に生きる意味を見出すために、あるいは人生において感動をしたいからなのだと思います。実際この映画を観に行く人々がそうです。
私は、罪の意識を感じることが良いとか、良くないとかということを言っているのではありません。「それ」は、自分があるいは私たちが自ら創り出したものだということを知ったら、生き方が変わるだろうと言っているのです。それを理解することによって、人生をより主体的に選択的に生きられるようになるからです。
映画の主人公は、その人生の秘密を知り、人生の意味を変える知恵に気づいた人でした。
罪の意識から離れて「意図的に創造的に生きなさい」という御言葉は、真実だと思います。
自分が、人生において何をしていたのかに目覚め、真の自分が何であったのかに気づくときに、自分にとっての「救い主」とは誰のことを言っていたのかを知るのかも知れません。
愛すべきは、はからずも「罪」という意識を生み出し、それを取り戻すためつぐなうために、人生により深い意味、愛や共感や思いやりや一体感を生み出そうとする、「人間という存在」なのだと思います。