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先日、映画『最高の人生の見つけ方』を観てきました。
超大金持ちの実業家(ジャック・ニコルソン)と極めて記憶力の優れた能力はあるが、
経済的にはソコソコの車のエンジニア(モーガン・フリーマン)。
その二人が同じ病室になり、がんであと6ヶ月の余命と診断される。
人生においてやり残したことは何か・・を書き出し、それを実現するために残された時間を「生きる」というストーリーです。
「そうでしかない」あるいは「このようでしかあり得ない」と思い込んでいて、自らを制限して生きてきた人生を振り返って、それが「いったい何であったのか」を知る時がきます。
僕は、この現象は誰にでも殆ど平等に必ず起きるように思います。殆どの人の場合は、死の直前です。あるいは死のプロセスにおいてです。
でも私の経験では、死の直前でもそれを問わない人、問うことを知らない人、疑う人もいます。
何人に一人か分かりませんが、死の直前ではなく、生きている内にそのことを知り、創造的に生きる人がいます。
自分の人生の目的は何か、今の自分の人生の目標は何か、それはなぜか・・・を書きとめ、理解し意識して生きている人がいます。
あと6ヶ月の命!と言われたときに、あなたなら、どのように生きるのでしょうか。
いや「明日死んでもいい」という今日一日の生き方を決めて、今日という二度とやってこない貴重な時間を意識して、
1日を味わい、生きる人はどのくらいいるのでしょうか。
「それ」はたった一つのこと、ホンの些細なことでもいいのです。
ホンの些細なことでも、実はよく考えるとかけがえの無いものかも知れません。
「野に咲く一輪の花」の意味深さ、完璧さに気づくことは、生命を俯瞰的に観る機会を与えてくれるように思うのです。
現代社会では、3人に一人はがんで死にます。
がんで死ぬことになったということは、結果から見るとがんについては、がんで死ぬような人生の生き方以外のことはしてこなかったとも言えます。
3人に1人ですから、極めて当り前、超平均的な死に方です。私は、だから「それがどーした」と思うのです。
その現実に対して、
医師や医療機関がどれほどの成果をあげているか。
医者は病人を、がん患者を助けなくてはならない。
しかし、助けられない患者のほうが圧倒的に多い。やらなくもいいことまでやる医者もいます。
この現実には、無力ささえ感じます。
そのとき、医者は何を考えればよいのか・・。
余命、カウントダウンの宣告という非情なことで終わるのか。あるいは避けられない死を、どのように医師あるいは
それを超えた者としてとして考えるのか。
救えないものをどう救うのか。そもそも救いとは何か。
『最高の人生の見つけ方』でそれを教えたのは、医者ではなかった。看護士でもなかった。
気づいたのは患者自身だった。
教えたのは患者同士であった。
生きるとはどのようなことか、病むとはどのようなことか。
病みを克服するということはどのような行為か。
そもそも自分の人生とは何であったのか、
知人、友人、家族とは何であったのか、
愛するということはどのようことか、
許すということはどのようなことか、を教え、学び、再び人生を創造する。
死を宣告するよりも、「生きられる時間のあること」ことに気づかせたのは誰か。
「それが何か」を思い出せた者はだれか。
医者でもなく看護士でもなかった。患者自身であったのです。
そもそも「死」はあり得ないと僕は思っています。
「自分」は、今肉体に宿っていて、肉体という物質存在を通して、物質化した生命現象を体験しているのであって、
「自分」そのものという本来の意識的存在は無くなりっこないのです。
それを教えられたことがなく、自覚しようとしたことがないから、当り前の感覚なのに、知らないだけの話だと思っています。
瞑想は何のためにするかというと、そのことを思い出すために、そのことを体験として検証するために行う心理的な行為でもあるのです。
人間には「見える世界」と「見えない世界」がある。
「見える世界」は、川の流れの前に立って、時々刻々と変化する定点を見ている世界。
「見えない世界」は、川全体、川の存在そのものを見ている世界です。
人間は、必ず肉体的な死を迎えます。それは進化のプロセスです。
だから大切なことは、自分が今どのように生きているか、という自覚を持ち、意図的に生きることであると思うのです。
『最高の人生の見つけ方』は、神が与えてくださった、
「体験の時間」という宝物をどのように創りだすか、
ということであると思います。
それはまた「永劫の時」でもあると思います。