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映画『犬と私の10の約束』を先日観ました。観ているあいだ、ずっと涙が止まらなかった・・・。お恥ずかしながら、若干目が腫れましたね。
函館、そこは僕の故郷、心と魂の帰るところ。現実を越えた癒しの世界。明治維新の夢見た戦士たち、数々の文豪の故郷、ギリシャ正教の処女地。僕の人生のすべてが発見される地。美しい町です。
最近、毎月一、二泊で函館に行っています。行ってなにをするか・・。
ただ「静かに」しているために帰っています。函館山で、近くの美しい大沼公園で、神の化身「駒ケ岳」の麓で、津軽海峡の海が見える丘で、ただただ「静かに」して、自分の心の奥底にある「あること」に耳を傾けつづけています。
私にとって、その地、函館でロケされた犬の癒しのストーリー、映画『犬と私の10の約束』でした。
さらに実は、一年くらい前から毎週水曜日に受付嬢がクリニックに犬(ラブラドールとシェパードの掛け合わせ、黒といえば想像がつくでしょうか)を連れてきているのです。
彼女は、アニマルセラピー、ドッグセラピーに深い関心があり、自らその道の講師として活躍をしているのです。当クリニックは、なんと毎週がドッグセラピーのクリニックなのです。
で・・、私の「魂の地」函館と、ドッグセラピーのストーリーがあって、よけいに涙が止まらなかった・・。
主人公の父親は、大学病院の外科医。犬が苦手な男。学会、地位名誉、手術の時間に追われ、娘の誕生日に「心の灯火」ロウソクを買って帰れなかった父親。
そんな彼が、将来を期待された大学病院の地位と名誉を捨てて、函館の街で開業をします。そのきっかけを作ったのが、主人公の斉藤あかりと犬の「ソックス」、それとあかりの彼氏でした。
最後のシーンで娘が、自分のせいで父親が好きであって望んでいた学問の道と、地位名誉の道を捨てざるを得なかったのではないかと、父親に問います。もしそうなら誤りたいといいます。
父親は、大学病院の医療世界を辞めて「街の医者」になり、「一人の人間として」患者さんに接することによって、もっとより多くのことを学んだことを告げます。自分の人生の選択に誤りはなかったことを娘に告白をします。
名もない街の片隅(と言っては失礼、でもこの映画のキャラクターは誰もがそこら辺にいるような人々ですが)の「医師」が、娘と犬との生活を通して月並みかも知れないけれど、生きることに関する深い人生の哲学を学んだ、ストーリーがあるような気がします。
また、犬とともに生きることによって、「人間の視点だけから見た生命」をあつかう一般の医療をではなく、それを越えた医師としての在りかたを学んだことがあるような気がします。
僕は、かつて大学病院に学問が好きで10年間医局で学問と臨床と教育に携わっていました。精神医学教室で、精神病理学、ことに芸術療法の表現病理学を研究していたのです。
しかし、ありきたりの学問では人の心を癒すことの限界を感じ、先端の学問とその殿堂を捨てて、街の中で病める人間の中に身を投じ、彼らとともに生きるという道を選びました。また形にとらわれない医療を心がけてきました。
その体験や、いま自分が日々犬とともに生き、またクリニックで犬が患者さんを癒している姿をみて、今回の映画と重なって、よけいに心のそこから深い響きを感じました。
犬と接することによって、一般の医療であつかう人間という枠を遥かに超えて、生き物として、命あるものとしてどのように生きるか、また医療のあり方について学ぶことができます。
そこに目を向けると、たかが犬、されど・・されど犬です。ホント、深いです。
なぜ、犬が人を癒すのか・・。なぜ、人が犬で癒されるのか・・。
答えは簡単だと思います。犬には人間が持っている複雑で余計な「理性」がないからです。
他の動物には備わっていなくて、人間には備わっているのですが、それが逆に作用して不幸になっている。いっそのことそれがない動物から矛盾した能力を使っている人間を見る鏡として動物がある、と考えてみるのも一つの手であると思います。
人は、あまりにも「理性」で人を傷つけ、自分に傷をつけるから。傷が癒えない。平和に暮らせない。
いまの人間は、理性の使い方を知らない。理性は、よりよく生きてゆくための「道具」なのに、人間はそれを忘れてしまったのだと思います。
ハッキリと経験的に思うけれど、理性では人の心の傷は癒されません。いくら理性的に学問を深めても、人間や動物を心理学的に分析してみても、決して癒しの道は開かれません。そこには癒しの道はありません。それは精神医学の歴史をみれば分かる歴然とした事実です。
癒しは、その人の内面的なあり方と現実的な行為から結果として生まれる感情的な体験です。科学としての医学や学問を超えた問題なのです。
逆に、理性にこだわろうとするほど、結果としてあまりにもしばしば人の心の傷を深める。
僕は、来る日も来る日も、臨床の現場で人の悩みや苦しみにつきあっているから、より分かるのですが。余計な潜在意識的な人の「理性」が、人の「心」を悩ましている。
人は、なぜ悩み苦しむという体験をするのか・・。それは深いところで、魂がその理性のあり方が違う!という叫びをあげるから、悩み苦しみという感情として感じているのです。
国境に線を引き、奪い合い、戦争やテロを引き起こす。人種や出身を差別する。宗教のドグマが違うといっては相手を攻撃する。政党間で自分たちだけが正しいといいセクトを作る。この方が自分たちに便利だからといって生態系を破壊し、環境を汚染する。ぜんぶ人間のある理性が引き起こしている現象です。
決して理性が悪いと言ってはいません。人間が理性の用い方を忘れたと言っているのです。
本当に癒しを求めようとするならば、理性の道を離れたほうが早く実現する。直接、感性や感情の世界を対象としたほうが、目的は早く達成される。それは身体感覚を使うということ、身体で求める感情を味わうということです。
なぜ、犬が人を癒すのか。お分かりでしょう。
患者さんが、クリニックの待合室にただ横たわっている「ソックス」に瞬間的に癒されるのは、犬は言葉をもたず、人間がお互いに傷つけるような理性を持たず、ただ素直に生きて見せているだけの話だと思うのです。
今週も癒し犬「ソックス」は、人間が未熟にも裸足で歩くことの痛みを、和らげる役目をクリニックで果たしています。私は、「ソックス」の偉大なる能力にはただ脱帽です。